台湾について

  この正月、台湾を旅行した。
  高雄、花蓮、台北を3泊4日。各都市一泊で観光名所を巡る典型的な日本人的海外旅行。こ
 のような旅行でも、国内ですら、数年に一度しか行けない。海外は、通算三度目。10年に一度
 の貴重な旅である。もっとも、特に前もって計画していたわけでもなく、1ヶ月前にまとまった休
 みが取れそうだからと、親孝行を名目に、母親を連れて、近場の海外に出かけることにした。
 このコースしか空いていなかったということもあるし、比較的のんびりコースで、名所旧跡を運
 んでくれるパック旅行。日本から数時間で行ける時差のない国ということで、この台湾観光にし
 た。


  ただ、台湾にはいくつかの思いもあった。
  以前、母親が「はとバス」で東京見物をした。その時、台湾から来た老婦と話す機会があった
 らしい。流暢な日本語。その話を聞く僕まで、台湾に親しみを感じた。高砂の国? かつて、台
 湾は日本の植民地で、みんな日本語教育を受けていた・・・?
  10年前から習い始めた太極拳の総本部が台湾にある。太極拳をはじめとする柔拳は、もと
 もと皇帝警護の拳であり、蒋介石の台湾移動に伴い主要な拳法家は台湾に渡り、今の北京に
 真に柔拳を伝える人はいないとも聞いた。太極拳は、毛沢東の文化大革命により、中国のラ
 ジオ体操になってしまった?
  そして、今勤める我が社も台湾に子会社を作り、確か同期入社のFも単身赴任している。  
  等々。
  そんな思いのひとつでも結びついて、正月休みの三泊四日で、母親が楽しみ、僕ものんびり
 できればいいと思っていた。
  結果、典型的な日本人観光客の例に漏れず、名所旧跡を駆け足で巡り、たくさんの写真を
 撮り、おいしい食事をし、お土産を買い、台湾マッサージも体験して、帰国した。そして、自己満
 足の写真を、自己満足のホームページに飾った。
  ところが・・・、である。何か、ひっかかってしようがない・・・。
  「僕は台湾に行ったことがある。高雄は工業の街でちょっと空気がよどんだ感じ。熱帯地方な
 んだってね。人工の中国って感じでちょっとがっかり。花蓮は先住民のアミ族の踊りが見られ
 る。台湾にも先住民がいたんだね。このそばの太魯閣にはすごい渓谷があって、大理石、宝
 石の産地。ここはミモノだよ。・・・台北の故宮博物院には、とにかく展示物が多くて、1日は時
 間を取りたいね。蒋介石が北京から運んだお宝の山は、北京のものよりもすごいらしい。蒋介
 石の記念館もでかくてスケールが違うねぇ〜。台湾マッサージは痛かったよ。もう懲り懲り
 だ。」・・・僕の台湾旅行は、それだけのことだった。
  ・・・で、僕は台湾について何を知っているのだろう? 飛行機で数時間という隣の国。日本が
 統治していたという国。ゼロ戦の撃墜王坂井三郎もここを基地として南方へ飛んだ。DNAの研
 究によるとポリネシアに渡った人類の祖先たちの国。個人的には、10年間も練習している正
 宗太極拳の本部がある国。さらに、今勤務している会社だって、台湾に子会社を作って、同期
 の仲間も赴任している。世界中のコンピュータのマザーボードはみんな台湾製。
 ・・・で、台湾って、何? 帰国後、いかに三泊四日と言えども、その間、何か感じた空気が、気
 配が、自分の行動のあまりにもただの観光者で、何も知らない様を恥ずかしいものと認定し始
 めていた。花蓮のホテルで言葉を交わした南米のおばさんの言葉が蘇る。「どこへ行っても日
 本人だらけね。。。」やれやれ。






 ・・・台湾を勉強した。

Ilha Formosa!

  台湾のホテルガイドを見ていると、ホテル・グランド・フォルモサとか、「Formosa」という言葉が
 目についた。台湾のホテルチェーンの名前だろうと、それほど、気にもしなかったが、
 「Formosa」とは麗しき島の意らしい。1544年、西太平洋で活躍していたポルトガル人がこの島
 を初めて見つけた時に叫んだ言葉「イラ、フォルモサ!(麗しき島)」から来る。(もっとも、ポルト
 ガル人はあちこちでフォルモサと叫んだようで、他にもフォルモサの地名が多くあるようだ。)
  関空を出発して3時間で台湾。鹿児島上空を通過してからは、ただ海上を、よどんだ雲の世
 界を飛ぶばかりが、かなたに高山の連なりが見え、台湾と知る。この日、第一印象は美しいと
 は思わなかったが、意外に高い山が連なる印象。高山国・・・か。

東インド会社の台湾支社

  台湾はひとつの統一された国にはなり得ないまま、諸国の干渉を受けたようだ。
 かつて豊臣秀吉が、台湾に使者を送ったが、統一する国も、支配者もなかったらしい。
 中国から見ても、風土病の蔓延るやっかいな島で、自国とは考えていなかったようだ。
 最初に台湾を重要な地域と見たのはオランダ。1624年に上陸して、城を築いた後、
 38年間に渡り、東インド会社の中継貿易拠点として支配した。

  オランダは、中国本土から移住民の労働力を調達し、この先住民の土地で莫大な利益を手
 にした。他方、すでにフィリピンを手にしていたスペインも台湾に食指を動かし、北部を占領。し
 かし、風土病(マラリア)や、先住民の抵抗で、17年で撤退。オランダの支配が北部にも及ぶ
 ことになった。

  その頃、満州族(清)に押されていた明王朝は、東アジアの海賊頭領である鄭芝竜に期待を
 かける。鄭芝竜は、日本の平戸で日本人女性と結ばれ、鄭森をもうける。清に押される明の南
 京政権がついえたのち、鄭一族が擁立した唐王の隆武帝に拝謁した鄭森は、成功と名を改
 め・・・・その後、父、母は、清王朝に騙され・・・、その自害を知った成功は、孔子廟の前で儒服
 を焼き捨て「今日ただ今より読書人であることを辞め、武人として生き、君国と父母の仇を討
 つ」ことを誓ったという。明王朝が完全に終焉した後も漢民族の再興を果たすべく、中国各地を
 転戦・・・最終的に台湾にやってきて、台湾の移住民の支持を受け、オランダを追い払った。彼
 の功績は「開山王」として崇められ・・・実は、この鄭成功が、国姓爺・鄭成功であり、近松門左
 衛門の国姓爺合戦として日本でも人気を得たということ・・・そう、国姓爺合戦って、僕も聞いた
 ことがあったけど、台湾のお話だったのだ。

  でも、まあ、台湾に対しては、清国政府になっても消極的で、風土病、毒蛇、住民による乱を
 理由に台湾への赴任を躊躇する官吏が多かったらしい。当時、多くの外国船が台湾近海で遭
 難し、台湾に漂着した遭難者が先住民により殺害される事件があったようだが、清国政府は
 先住民とその居住地域を「化外の民、化外の地」として責任を回避していたという。

日本の台湾出兵

  日本が明治維新後、近代国家を標榜し、日清両属の琉球の処遇に苦慮し、また台湾にも食
 指を動かしていた頃、宮古島の住民66名が台湾南部に漂着し、54名が先住民に殺害される
 という事件が起きた。日本政府は、この事件を利用して琉球の日本領有確認と台湾進出を同
 時に果たすことをもくろんだ。清国政府が相変わらず責任回避をするのに対し、日本は、台湾
 に出兵。台湾南部を占領。大久保利通の清国との交渉の末、北京専約が結ばれ、日本は台
 湾から撤退。琉球が日本帰属であることが清国政府が認め、清国政府は台湾を領土として、
 積極政策に転ずる形となったとのことです。

日清講和条約

  阿片戦争後、列強国は、狼狽する清国の領土を虎視眈々と狙う。清仏戦争のさなか、フラン
 スは直接台湾に武力侵攻した。1885年にはベトナムがフランスの保護国となる前提で停戦協
 定となったが、清国も台湾の重要性に気づき、人口調査、土地調査をはじめる。台湾の政治
 の中心が次第に北部に移行していくようだが、時はすでに日清戦争の真っ只中となる。

  1895年、日清講和条約により台湾は日本に割譲される。明治維新からわずか30年弱、無理
 して世界に向かう日本は、まじめに、まじめに、日本を広げる。

  ・・・とまあ、ここまで、2冊の本を読んだ上で、まとめてきたのですが、ここで司馬遼太郎の街
 道を行くシリーズの台湾紀行を読んで唖然。なんともはや、文豪の手にかかると僕が言いたい
 ことがほんの数行でまとめられているのですな。。。。で、以下、少し抜粋。営利目的ではない
 ですけど、著作権に触れたら、ごめんなさい。

「日本時代は、太平洋戦争の敗戦で台湾を放棄するまで50年続いた。私は日本人だからつい
日本びいきになるが、余分な富力をもたない当時の日本が---植民地を是認するわけではな
いにせよ---力の限りやったのは認めていい。国内と同様、帝国大学を設け、教育機関を設
け、水利工事をおこし、鉄道と郵便の制度を設けた。」

  でも、触れておかなければならない事実も僕は知った。台湾では抗日運動が激しかった。こ
 の辺も朝鮮と違うところを認識しておく必要があるかもしれない。(今時点が逆のように思える
 からこそ。)
  清国が割譲した当時の台湾の人口は、先住民45万、移住民255万の合計300万と推定され
 ているらしい。台湾の占領に投入された日本軍は、陸軍5万人、軍夫26,000人、軍馬9,500頭で
 当時の陸軍の1/3以上、海軍は連合艦隊の大半が動員された。大清帝国でさえ屈した日本
 軍に、台湾住民は悲壮なまでに激しく抵抗した。

  鎮圧に5ヶ月を費やし、日本軍の戦死者278名に対し、台湾住民の犠牲は14,000人と推定さ
 れている。(司馬遼太郎の本では、日本兵5万人のうち5千人が死に、1万5千人がマラリアや赤
 痢にかかって戦闘力を失ったとあるが・・・今は、司馬ではなく、台湾の人が書いた書籍に基こ
 う)

  日本が統治した台湾の総督は、初代樺山から、桂太郎、乃木希典を経て、4代目児玉源太
 郎から実際に始まる。児玉は8年に渡り、日露戦争中も印綬を外さず、指導は後藤新平という
 逸材に任せた。「うかつな者が総督になれば、台湾はもとの台湾になる」と。

  かくて、反乱する民を鎮圧しつつ、台湾経営の基礎となる土地調査、旧慣調査、人工調査を
 行う一方、後藤新平は交通、運輸、港湾などのインフラ整備にも着手した。水利灌漑事業は、
 台湾の農業生産に飛躍的な効果をもたらし、米の品種改良も積極的に行われ、台湾の「蓬莱
 米」は当時大量に日本に移出されていたという。

  児玉総督、後藤長官により、台湾経営は成果を挙げ、領有から10年ほどで台湾は財政独
 立した。(朝鮮は、ずっと、赤字であった。)

  もっとも後藤長官の時代は、「教育は諸刃の剣」との思いから教育には消極的であった。や
 がて、軍人ではない文官総督の就任により台湾の教育は著しく変貌した。1928年には、大阪
 や名古屋よりも早く帝国大学を設立(台北帝国大学)。当然、小学校、中学校、高等学校の整
 備が必要となる。確かに、後藤長官の懸念のとおり、教育の充実は台湾人の民族意識を高
 め、植民地支配への抵抗運動を助長したが、この教育なくして台湾人の近代的な目覚めはな
 かったのではないかと言われる。・・・・というか、台湾の親日派である所以は、どうやら、すべ
 てこの日本の50年間の統治の結果であるようだ。いや、日本が貢献したとかではなく、先の司
 馬遼太郎の文章に表れるように、日本から台湾に来た上下水道指導者、農業指導者、音楽
 指導者等々、皆、台湾に骨を埋める姿勢でやっていたことを感じる。

  ・・・とは言え、台湾の先住民がどんどん山岳地帯に追いやられて行ったのも事実のようであ
 る。そもそも、江戸時代によばれた高砂の国の先住民、昭和天皇が皇太子時代に訪れた際、
 つけられた高砂族の人々は、大陸からの移民に押され、日本の統治に押され、山に逃げるし
 かなかった? 高砂族の如く美化した言葉に惑わされてはいけない。。





  1930年、中央山脈の中央、霧社で山地先住民が日本人を襲撃する事件が起き、日本人132
 名が殺害された。日本の統治に対する不満と見る向きも多い。

  1931年、満州事変勃発、日中関係は悪化の一途。1933年、国際連盟脱退。1937年盧溝橋
 事件、日中戦争。1941年太平洋戦争。・・・台湾も否応無く戦時体制下に取り込まれる。皇民
 化運動により、新聞の漢文欄の廃止、日本語使用の推進、寺や廟の偶像撤廃、神社参拝の
 強制・・・台湾にも徴兵制が施行され、22000名が
 徴集。最終的に3万余の台湾人が戦争の犠牲になっている。


中華民国


  そして1945年、日本の敗戦により、台湾の歴史は、また余儀なく、大きく変わる。
 終戦当時の台湾にいた日本人は48万人余。20万人は台湾にとどまることを希望したが台湾を
 接収した国民党政権はこれを許さず1946年4月に日本人の引き上げは完了した。最後まで任
 務を全うした台湾総督の安藤は逮捕され、上海に送られたが、そこで自害した。

  ポツダム宣言の受諾により、台湾は蒋介石の中国軍に占領されることになる。当初、台湾の
 人たちは喜んだ。大陸からの移民も多いし、当然のこと。蒋介石は、陳儀を「台湾省」に送り込
 んだ。陳儀は、1945年10月、「台湾は正式に中国の領土になり、中華民国国民党政権の主権
 下に置かれる」との声明を発表した。この時点で、すべての台湾人は国籍が中華民国となり、
 公用語は日本語から北京語となった。
 しかし、陳儀は典型的な中国の官吏であった。数年後、台湾人は「犬(日本人)去りて、豚(中国
 人)来たる」と嘆くようになる。
  台湾人の不満が鬱積していた1947年、密輸タバコ売りの取り締まりに端を発したいざこざは
 たちまちに全台湾規模の「二.二八事件」に発展した。汚職を常とするやり方に、それまでの日
 本統治下の教育で高まっていた台湾人の意識が一気に破裂した事態とも思える。
 この処理でも陳儀は実にキタナイ。台湾人の要求を受け入れるがごとくゴマカシ、一方で本国
 に応援を要請し、時間稼ぎの後、到着した応援部隊は、いっせいに台湾人の虐殺を始める。
 そして、日本統治下の高等教育を受けた知識人を中心に、その一ヶ月間で約28000人が殺害
 されたという。

  中国大陸では、中国共産党と対立する国民党の形勢がますます不利になり、1949年、蒋介
 石は総統を下野、台湾に移る。中国共産党が中華人民共和国の建国を宣言し、国民党政権
 は台湾移転を声明。蒋介石を中心とする中華民国がのさばる台湾となる。

  国民党政府は、基隆港に建てられていた初代台湾総督の銅像をはじめ、台北新公園の児
 玉源太郎、後藤新平の銅像をことごとく打ち壊し、日本人の墓を暴き、墓石や記念碑を倒し、
 墓碑銘をセメントで埋め込んだ。代わりに建てられたのが蒋介石の銅像。銅像、画像の物量
 作戦だけでなく中正(蒋介石の号)堂のような巨大記念館、地方都市の中正路、民族英雄神話
 作りなど、大々的に行われたようだ。

  実は、台湾の人は、日本の統治下を誇りに思う人も多かったと聞く。当初の抗日時代を過
 ぎ、各方面の先進の日本人が台湾で台湾をよくした。鉄道、上下水道、衛生、教育、
 等々。・・・ふと、ほんとうに今の日本人は、日本人がやってきたことを正当に認識していたのだ
 ろうかと疑問に思う。戦後補償の問題等々、やたら新聞報道を鵜呑みにして、われわれ戦後
 派は卑下し過ぎていなかったろうか。

  日本の統治から一変して、台湾は、中国大陸から来た国民党の人々に牛耳られた時代がそ
 の後40年も続く。戒厳令も40年間出っ放しで、国民党議員がずっと安泰という一方的な状況で
 あった。
  ところが、蒋介石の息子、蒋経国は徐々に台湾人の登用の必要性を感じていたのか、それ
 でも、大人しい李登輝なら安心と副総統にしていたが、蒋経国が急死。憲法の下、李登輝が総
 統になってしまった。李登輝は台湾人、日本統治下、京大に農業経済を学び、学徒出陣してい
 る。


・・・・


  李登輝以降、台湾がどんどん変わっているところの話は、近しい事実。でも、それを当たり前
 と思っていた。こんな直近の過去に、ひどい時代があったのだ。日本人の平和ボケと言われる
 所以だ。あるいは、謙虚で自虐的で、新聞報道のまま、戦争責任を言われるとそうしなければ
 と思う戦後の典型的日本人。

  たとえば、僕が20年前にこのような文書を台湾で書いていたら、数日後に海に浮かんでいた
 のである。
  科学の偉大性に感激し、そういう余裕のある社会の仕組みにまったく安心しきって、新社会
 人としていろいろなことを体験してやろうと思って爛々としていた20年前、隣の台湾では、多くの
 前途ある知識人が闇に葬られていたのだ。

  僕はなんと狭い社会しか実感していなかったことか、
  そんな思いは、台湾を旅行するまではなかった。
  小さい頃、女学校の勤労奉仕の飛行場で何度もあった空襲の話を母から聞いても、
  陸軍航空隊の整備兵だった父から、燃える東京の話を聞いても、
  修学旅行で長崎の平和記念像を見ても、
  高校を出て京都で一人暮らしをしても
  学生時代を東京で送っても、
  初めて、就職して、多くの顧客に接しても、
  新婚旅行で立ち寄ったオーストラリアの戦争記念館を見学しても、
  その後、家内と行った沖縄のさまざまな戦争の跡を見ても、
  娘を連れて、広島の原爆ドームを訪れても、
  出張で行った米国南部アトランタの歴史博物館で見た黒人奴隷の足枷を見ても、
  ・・・
  この何気ない、台湾旅行をするまでは、民族、国家に対する感受性は著しくボケていたと思
 う。

  改めて、イラ、フォルモサである。

  地球規模でいうと、混乱の真っ只中に生きていることを、日本人は知るべきであった。

  でも、現時点でさえ、その矛盾ある国家に変わりはない。
  中国本土から来た人たちがここも中国であると訴える。
  台湾人にとってみれば、たぶん、余計なお世話だろう。
  かと言って、独立を目指せば、中国からミサイルが飛んでくる。
  もともとの先住民の国に、漢民族がやってきた。最初は、純粋な移民。そして植民地時代の
 奴隷、次に海賊と共に。その間、オランダ人、スペイン人、日本人がやってきた。世界レベル
 の植民地時代。日本人は、くそまじめに人を育てたが、戦争に巻き込んでしまう。敗戦。そこへ
 また、漢民族が一方的になだれ込んできた。近代化に目覚めていた民は耐えながら、機会を
 モノにした。結果、国家の形としては矛盾のまま、世界で有数なドル保有国、技術生産国にな
 っている。
  日本から、台湾に行くのは、日本航空ではなく、日本アジア航空なのだ。でも、日本航空のマ
 イレージに加算される。
  そういう仕組みの世界なのだ。

  なんにも知らない僕が、なにかあると感じたほど、たくさんの思いが今なお五本指の竜のごと
 く渦巻いている国だったのだ。

  よその国ではないと思う。





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