2004年5月 沼津

5月1日

 家を8時前に出て、沼津には11時に着いた。

 つい一週間前まで、自分の人生の中で、沼津に降りる可能性を考えたこともなかったが、和
 歌山に帰る途中で京都に来ないかという姉の誘いを断りながら、そうだ、芹沢光治良文学館を
 訪ねようと思った。







 駅前からバスに乗る。さて、どこで降りようか。インターネットで地図をプリントしたのだが、ど
 うもアバウトだ。芹沢光治良が生まれ育った「我入道」のあたりで降りたものの、方角がつかめ
 ない。潮の香りがするから海が近いことがわかるけれど、どちらへ行けばいいのか。あたりは

普通の住宅街。川に生活の匂いがして、自分の田舎の辺と同じ匂いがする。

 最近とみに目も悪くなって、感覚の鈍さにつながっていると思う。遠くの字が読めないという
 か、気付かないから、近くの地名しかわからない。

 天理教の分教会の前を通る。ローソンがあった。やっと、地図での位置がわかったから、文
 学館の方へ向かう。自分の田舎のあたりを歩いているのとさほど変わらない。芹沢姓がたくさ
 んある。

 海に出た。やれやれ、方向が違った。







 適当にひたすら進む癖は昔から変わらない。引き返すのも面倒なので、そのまま御用邸に
 向かう。







 小説にもたびたび登場するものの、御用邸の内部の話はないから、邸内には別に興味がな
 かったが、時間はたっぷりあるし、中に入って、高貴な方々の当時のご様子をうかがう。







 御用邸の敷地の中にある歴史博物館へ行く。旅をして、その土地の博物館に立ち寄ると、そ
 の土地の匂いがして身近になる。ここには、日本で初めて漁船に取り付けられたというチャカ
 が小さな船のそばに置かれていた。こんな小さな船であったか・・・。











 御用邸を出て、文学館へ向かう。我入道公園という公園があり、地元の子供たちが遊んでい
 る。そんな雰囲気に完全に同化して、公園の一角に文学館があった。松林と公園の境目に、
 砂と同じ色のコンクリートの建物。桔梗の紋がある。ウチと同じだ。家紋の話など読んだ小説
 にはなかったが。











 中に入ると、女性がひとり。親切に荷物を預かっていただいて、見学する。ビジュアルに見た
 ところで、どうということはないのだ。あ〜芹沢光治良は、誰かに似ているとずっと思っていた
 のだが、大網のTさんだ。もう一年以上、講座に見えないが、リタイアして奥様と悠々自適の生
 活をされている。あの方に似ていたんだ。・・・って、そんなことはどうでもよく。















 ちょうど、今読んでいる人間の運命が、奥様のわがままなところを書いてあり、以前の神シリ
 ーズでは、理想の夫婦のような書き方であったから、ほっとしていたのだが、フランスに行った
 頃のご夫婦の写真があった。奥様は顔が大きいので、またほっとした。







 訪れていたのは僕一人であったが、維持するのも大変だろうなと思う。ただ、読書会などが
 定期的に開かれているようなので、愛好家は集まるのだろう。ただ、もともと文学は苦手だか
 ら、友の会には入らず、梶川敦子さんの一冊の本を買って海岸に出た。











 ちょうど、文学館からの道が、我入道海岸に出る道で、連休ということもあって、多くの家族
 連れが海岸でバーベキューなどを楽しんでいる。海岸に出る道の両側に二つの碑があるのだ
 が、近寄る人もいない。左側の碑に近づき、表に刻まれた作品群を眺める。近くに停まったク
 ルマの中から、よりそうカップルが不審そうな目を向ける。碑は、1メートルほど高い地面にあ
 るため、ここに上がると、ちょうど、クルマの中を覗き込むかっこうになる。

 碑の向かう方向には、富士が見えるらしいが、曇っていて見えない。











 松林の方に、碑文が刻まれた大きな岩が見えたからそちらに向かう。85歳の芹沢光治良の
 言葉が刻まれている。ここから海岸を見ると、ヤクザっぽいお兄さんが乗ったクルマとその向こ
 うに堤防があって、我入道海岸が広がる。







 2つの碑とも、海岸との間にしっかりと高い堤防があるから、たぶん、光治良が、幼き頃に佇
 んだ風景とは違うだろう。少し西風が吹いているが、汗ばむくらいの陽氣に陽も射して、波もお
 だやかだ。海岸には、水遊びをする子供たち、子犬を連れた老人、バーベキューを楽しむ若
 者・・・光治良が思いを馳せた海ではない。







 海辺に育った僕だから、この伊豆の海には、格段、変わったものを感じず、そう、故郷の荒
 浜の小さい頃の風景が、おそらく光治良の佇んだ海に似ているのであろうと思った。故郷の海
 も、冬には、紀伊水道を渡る西風が冷たく、厳しかった。台風の日の怒濤の波は恐怖であっ
 た。ただ、たぶん、たいがいの日は、ただの海なのだ。目の前が海だけの風景に、向かって佇
 むことが、ある種に人間には慰めになるのだ。・・・きっと。この海は、外房の海よりは、おだや
 かだ。







 我入道海岸を、狩野川の河口に向かって歩く。ただ、松林と、堤防と、海岸である。海岸に
 は、ゴミがたくさん打ち上げられ、そのそばで、バーベキューだ。河口にも、特に何もなかった。
 河口には、灯台があるか、存在感のある建物があるのが僕のイメージだったが、対岸に魚市
 場らしい建物があるだけで、川は高い堤防で仕切られている。3mはあろうか。。。







 狩野川と言えば、狩野川台風を思い出すが、たぶん、古くから、洪水を引き起こしてきたので
 あろう。しかし、この堤防がなかったとしたら・・・、この堤防が想定するような洪水が起きたら、
 我入道は一飲みだろう。確か、「人間の運命」でもそのような場面があった。







 我入道の渡しというのがあって、ちょうどいい時間だったから、乗り込む。定員14名の木の
 船。博物館で見た漁師の船よりは大きかったが、櫓があったから、当時は、これで海に出たの
 か。これで、のんびりと向こう岸に渡してくれるのかと思ったら、ヤマハの船外機だ。チャカでも
 なかった。スムーズに上流に向かって、川面を走る。

 子供連れの家族に押し出され、船頭の股に座り込む形で、窮屈だった。やれやれ。でもま
 ぁ、100円だ。







 ハワイアンの音楽でフラの体験教室に人だかりがしているそばで船を降りると、上は、繁華
 街である。沼津駅の方は、海面よりも、地面がかなり高いようだ。川の反対側や、河口の方
 は、海面と地面が近いように見える。やはり高い地面の方に、繁華街が広がったのであろう
 か。





狩野川河口から、香貫山を望む


 大手町まで歩いて、バスを待つ、今度は、若山牧水の方へ行って見ようと思う。学校の教科
 書に歌が出てくるから、誰でも知っている歌人だが、僕の好きな歌は、「しらたまの歯にしみと
 おる秋の夜の酒はしずかにのむべかりけれ」だな。やっぱり。

 例によって、適当にバスに乗って、松林のそばで降り、歩く。もう4時近かったから、牧水記念
 館も閉館するかもしれないと足を速める。文学の道というらしいい。かつては、別荘だったよう
 な、それでも、日本人らしくちまちまと澄ました家が並ぶ。







 若山牧水記念館は、沼津市営だ。何人かの職員がいるか、展示室は狭い。歌と徳利と猪
 口。それだけかな。若い女性の二人連れがいたが、牧水のような生き様にあこがれるのであ
 ろうか。ふむ。享年四十何歳。晩年に肝硬変等々。・・・やっぱり酒か。やべ。















 海岸に出る。千本松原だ。陽がだいぶ傾いて、我入道よりキラキラしている。ここにも多くの
 人がいるが、バーベキューは禁止のようだ。晴れていれば、富士と松原が美しいのであろうと
 想像される。たぶん、富士がなければ、ただの松原で、松がなければ、ただの浜だが、思え
 ば、九十九里というのは、なぜ、たいした松原がないのだろうか。・・・ま、いいか。











 そろそろホテルを探そうと駅に向かうバス停を探す。一時間に一本だが、しばらくして来たバ
 スに乗り込む。反対方向だったけど・・・。

 行き先は、確かに沼津駅だったので、まぁ、いいさ。来た道を引き返してくれて、さらに狩野川
 を渡って、我入道へ連れて行ってくれた。

 このバスが我入道の中を通るバスだったんだ。東町バス停で、光治良生誕地の碑を眺め
 る。防災センターの玄関にかかる光治良の碑文を遠くから見る。降りるには疲れた。ローソン
 の前を通って、牛臥海岸に出て、御用邸のそば。・・・やれやれ。乗客独り。

 広い通りを駅の方に方向を変えたが、すぐに右の脇道に入って、山の方に向かう。香貫山
 だ。まるで、明日は、ここから昇るんだと教えてくれたようで、登山口入り口の看板の前で、駅
 の方に曲がって、川岸に鯉幟が泳ぐ、狩野川を渡り、繁華街を抜けて駅前へ。



5月2日

 5時にはベッドを抜けて、シャワーを浴びる。今日も富士山は見えないが、香貫山に登ろう。

 6時前には、ホテルを出た。カメラだけ持って、Tシャツ一枚で出たのだけれど、寒い。戻るの
 も面倒だし、そのうち温まるだろうと思ったが、狩野川を渡る風に震えた。例によって、適当に
 歩いたら、方角を90度間違えていて、それでも山は見えているから、ジグザグに歩いて、昨日
 の登山口までたどり着いた。人通りはなく、鶏が鳴いている。久々に聞いた。







 クルマでも行ける道であるが、路傍の小さな花々を撮りながら、歩く。少々寒いから、ついつ
 い早足にある。途中、降りてくる人たちに出会うが、地元の人の朝の散歩のようだ。昭和の森
 でもそうだが、年配の方が多い。











 香陵台という見晴台に着く。平和祈念の五重塔と、牧水の石碑がある。向こうの山が愛鷹山
 らしい。その上に富士が見えるそうだが、今朝も見えない。その時、「おはようございます」とい
 う声がしたものだから、そちらを振り向くと、下から登ってきたらしい年配の女性が、柵を乗り越
 えるところであった。そんなところから、まさか、おばはんが現れようとは思わなかったから、仰
 天した。







 香陵台から上も、車道がついていたが、落石のため、クルマの通行は禁止。展望台まで1.
 4キロ。脇に狭い登山道があって、こちらは展望台まで1.1キロ。300メートル近いのか・・・。
 見上げれば、さっきのオバハンが登っていく。当然、こっちだな。

 50メートルも行って、後悔した。心臓が踊り始める。でも、引き返すのは、面倒だ。オバハン
 は、もう見えない。肌寒い。こんなところで遭難したりして・・・。でもまぁ、雲間から出た陽を受け
 て、草木がきれいだ。







 息を切らして、展望台に着く。さっきのオバハンが体操していた。

 沼津市を一望できる。右の方から、愛鷹山の裾野、狩野川がゆったりと流れて蛇行し、正面
 の向こうに千本松原。駿河湾。狩野川の河口の左に我入道と牛臥山、御用邸が続き、左手
 に、沼津アルプスと呼ばれる奇妙な山の連なりが見える。きれいなものだ。「人間の運命」で
 は、菜の花畑が広がっていたようだが、ま、街並みでもいい。





香貫山展望台より。4枚の写真を合成した180度パノラマ


 車道の方から、何人も上がってきて、ほぉ〜っとした声を上げる。

しかし、狩野川というのは、海直前になって、何故こう蛇行しているのであろうか、素直に千本
 松原の方に突き抜ければよさそうなものだと思うが。。。これも富士のせいか。わが郷里の紀
 ノ川は、奈良の方から、一直線に海に注いでいるが。狩野川は、素直に通すと、千本松原を分
 断することになるから、あえてしなかったのかもしれない。・・・勝手な想像だが。





愛鷹山。晴れた日には、その向こうに富士が見える。




狩野川が右から左へと流れ、向こうには、千本松原が続く。




狩野川河口の左に我入道の街並み、牛臥山。




沼津アルプス


 下りは、車道の方を行く。なるほど、楽なもんだ。何人もの人とすれ違い、つど、挨拶をする
 のも自然になる。珍しい鳥の声や、ウグイス鳴き声が冴え渡る。足元に薄紫の花びらが落ちて
 いるから見上げると、藤の花が咲いている。





真下から見た藤


 車道の途中から、また登山口が降りていて、かなりの近道だったから、懲りずに、またそちら
 を行く。急な斜面を降りて、一気に川辺に出た。















 鯉幟が泳ぐ川辺を歩く。ロープ一本に鯉を並べてつるして川を渡す鯉幟は最近よくみかける
 が、ここのは、一組一組竿にかけ、竿がずらりと並んで壮観だ。











 文化センターの碑や、メモリアルパークの芹沢家の墓を訪れてもみたかったが、やはり自然
 が一番だ。香貫山から、当時を眺めてみるのが一番良いかもしれない。街に入ると、どこも今
 の日本である。天地は生成流転して瞬時も止まらず。人に近づけは時が早く過ぎる。山に登れ
 ば、時がゆったりと流れる。

 小説の縁で何か、人間的な出会いを期待していたが、ここでも、また山に出会い、自然に出
 会った。そのうち、話かけてくれるだろうか。







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